嫉妬

嫉妬って言葉はよく使うけれど、嫉妬って何って改めて考えるとなんかよくわからない。だからちょっと調べてみた。広辞苑では『①自分より優れたものを妬みそねむこと、②自分の愛するものの愛情が他に向くのをうらやみ憎むこと』などとある。でもって、その英語訳はJealousとEnvyなんだけれど、これは微妙に違う。Envyは羨ましく思うことであって、必ずしも憎しみの感情は含まない。「いいなー」と思うことは必ずしもわるいことじゃないもんね。Jealousの方は少し様子が違う。こちらははっきりとやきもちを焼くという意味も含むし、「自分のものをとられまいと用心して」という意味もある。つまりJealousは誰かに幸運が訪れているかどうかよりも、本来自分が持つべきものを誰かに掠め取られそう、あるいは盗られた状況が生む感情なようだ。だから自分が欲しいものを他人が持っていることを見て、自分とは全く関係なくても「自分が本来持つべきものを他人が横取りした」という錯覚に陥り、怒り、与えられたものを盗人であるかのように憎むこと」がJealousの正体かも。愛情も、栄誉も、お金も仕事もね。

「自分の愛するものの愛情が他に向くのをうらやみ憎むこと」って、本来なら愛する者の心変わりを憎むべきなのに、実際には愛情が与えられる人間を憎く思うよね。「愛を奪われた」って言い方するし。

私は結構嫉妬深い。情けないけれど、かなり。しかも必ずしも「自分より優れている」人を妬むわけでなく、むしろ自分より優れていない人間が賞賛を集めているとより憎い。要するに私は「私は称えられて然るべき」って思っているわけだ。これが私の心を蝕んできたんだなと最近気付いたわけだけど、他人を「自分より優れていない」と見なす心も、自分が求めるものを他人が持つのを「ずるい」と思う心も、両方捨てなければならないってことよね。でも実際には多くの人間を自分より劣っているとでも思わなければイライラして優しくできないし、自分が求めるものを持つ人なんかは見たくない。仲良くするなんてもってのほか。

面倒くさい心、死んでしまおうかとつい思う。

あたしより後から習い事を始めて、あたしをぐんぐん抜かしていく人がいる。「上手だね、悔しいなぁ」って言いながらにこにこ笑ってるけど、本当はすごく不愉快。しかもあたしもう30なのに、こんな小学生レベルのことをブログに書いてる。

他人をすごいと思うとき。

私はTOEICでなんとなく900点を(海外に移住する以前にね)取ったんだけど、自分の英語には自信は無い。たしかに海外で英語に困るわけではないし、英語で仕事をして英語で簡単なプレゼンテーションなどもしていたし、もちろん英語で勉強して英語で報告書を書いたわけだ。でもそれをどう言うふうに今活かしたらいいのかわからない。

例えばこの方:
http://blogs.dion.ne.jp/friends_english/archives/cat_122838-1.html

フレンズのDVDで英語を勉強されて、900点を超えたということで『偉い』のよ。すごいのよ。でももっと偉いのは、それを本にしていること。私もフレンズを見ながら、英語の勉強にいいと思ったし、これは英語を学んでいる友達に勧めようとは思ったけど、自分はフレンズの英語が大体理解できてしまうので、それを使った勉強法を本にすることまでは思いつかなかった。別に900点が取れなくても、400点を700点まで独学で上げた人はそのテクニックを本にして同じレベルの人を助けることができるし、ぶっちゃけ私より英語ができないのに「英語ができます」って胸を張って仕事をしている方は世の中にたくさんいると思うの。それでも私は自分の英語の能力のどこをどう活かしていいのかが、正直全然わからない。

上には上が、下には下がいて、私レベルでも本を書いたり人の役に立つことができるはずだと思うのにね。勉強に関しては自分があまり努力をしてこなかったから、出来ない人が出来ない理由は頭が悪いから仕方が無いとか思ってるのかもしれない。私が奢っているんじゃないんですよ、念のため。うちの兄弟はもっともっと出来が良くてもっともっと努力家だから、私なんて及びも着かないの、今も。実は両親も二人とも優秀で、学校のテストで100点をとっても「うちの子なんだからあたりまえ、自慢するな」って言われて育ったの。いつも「駄目、駄目、駄目」って。偏差値は科目によっては80を超えることもよくあったのに・・・、あたしは典型的なアンダーアチーバーです。

そういえばね、中学生の頃は理科と数学が得意でいつも100点かそれに限りなく近い点を取っていたんだけど、一度も先生に褒められたことなんかなかったのね。それでも一度だけ勉強しなさすぎて、92点ぐらいだったことがあって、その時だけ先生が私を抜いた子を褒めたの。クラス全員の前で「立石さん、今回はがんばったな、すごいな」って、それも2回ぐらい。だから立石さんの隣の男の子がその子の点数を盗み見して、「すげー!96点だ!」って騒いだのね。そうしたら他の子たちも「すごいすごい」って大騒ぎ。私が100点取ったって人前で褒められたことなんか一度も無かったのに、なんで私を抜いた人には称えられてんの!?って、これはものすごく不満だったね。それまではあんまり意識したことはなかったんだけど、自分はできて当たり前って思われて、がんばってもがんばらなくても褒めてもらえないんだなって。

あたしの出来がいいのは親のせいで、あたし自身は褒めるに値しないんだなって。

皮肉なんだけど、うちの母親はいつもいつも褒められていたからわりとがんばり屋で、本人としては子育てもがんばったのね。でも「私は人よりは良い母親なはず」って言う奢りが私たち兄弟を苦しめて、結果としてみんな思春期に入るとものすごい問題が起きたの。それで親はどうしたかと言うと、「私はあんなにがんばったのに誰も褒めてくれない、馬鹿馬鹿しい」って言って、子育てを放棄したの。食事もおざなり掃除も適当。でもちゃんと長期で仕事をしていた人にはわかると思うけど、大人になったら仕事なんて「できて当たり前」でさ、上手く言ったって上司に褒められるわけじゃないでしょ?自分でがんばって自分で自分を褒めても、ちょっとしてミスにけちつけられるのがオチでしょ?それでも自分が満足できる仕事ができる時がたまにあって、ちょっとそれで自信がつくんだよね。

いつも褒められて育った母は、大人になっても誰かに褒めてもらって当たり前だと思い、がんばったのに失敗すると放り出す。褒められずに育った私も、大人になっても「褒められたい」って思ってて、しかもがんばることもできない。何の負の連鎖かねぇ?私もせめて自分を支えたいと思うけど、支えたところで幸せになれるわけじゃないしって思っちゃうんだよね。あんまり幸せな子供時代じゃなかったから、これから幸せにって言われてもよくわからないんだよ。そういうことを、次回のカウンセリングで言ってみようと思う。

意味が無いのかあるのあか・・・

学生時代に得意な科目はダントツ数学。これは授業を聞いてさえいれば問題なかったので、常に成績が良かった。国語も、古文とか漢文とかややこしいことを言われなければ大丈夫。英語も得意だったけど文法用語を言うとか、ピリオドを必ず打つとか、そういうことはパス。最も駄目なのが歴史。興味も無かったし、暗記するなんて面倒だったから。

ところが日本人としてそれなりに生きているうちに、それなりにドラマを見たり歴史小説を読む機会があり、それなりに歴史観が身についてきたようで、最近面白くなってきたの!今日も「春日局ってよく耳にするけど、誰?」という疑問から6時間ぐらいネットで歴史についてWikiってました。ところで、こういう作業って意味あるわけ?本を読んだり調べ物をするのは勉強と同じだから「良し」とされた子どもの頃の刷り込みが抜けなくて、自分では意味があることをしているように勘違いしてしまう。でも今私のするべきことは日本の歴史について詳しくなることじゃないよね。知的好奇心を満たすことが知的な作業だとしても、「気になるから調べる」を続けて生きていけるのは学者ぐらいのもんでしょ。それに学者だって講義したり会議に出たりしなきゃいけないし・・・。

毎日自分を否定しても仕方ないけど、やっぱり人生の舵を取ろうと思うならちょっとは考えて行動しないとね。
気が重い。誰か助けてくれないかな・・・。

寝られない

リストがある。電気代を払うとか、部屋の片付けとか、これからの計画とか。それなのに今日は何もできなくて、心が苦しくてこのまま寝る気になれない。

基本的なことなんだけど、いい人になろうとして頼まれたことを断れないってバカなだけだよね?自分の面倒も満足に見れないくせに、人を助けようとするなんておごってるんだよね?私はいい人ぶっていると言われた事もないし、これでもどちらかと言えば毒舌派なんだけど、今日も3時間ぐらい自分の利益にならないことに時間を使った。もっとかもしれない。だけどほら、「情けは人のためならず」とか「一日一善」なんて言葉が胸に沁みてしまう今日この頃だから、ちょっと他にやりたいことがあっても後回しにしてしまうんだよね。それで自分の時間を削るならバランス取れるけど、テレビの時間はしっかりとってるぐらいだから、結局今日計画したことはほとんど手付かず。

人の役に立つ前に、自分の役に立たなければいけない。人の役に立つために、自分の義務をおろそかにしてはいけない。犠牲にしていいのは、自分の楽しみの時間だけ。こんなとこかな?

実際私の生活の優先順位は、エクササイズが一位、頼まれごとが2位、夕方のテレビが3位ぐらい。生きたいと思えるようになりたくて、自分を甘やかしてきたのかな?誰かに甘えたい。頼りたい。この年で、そんなこと思っちゃいけないのかな。思い出すな、小学生の頃自分の親の言うことは世間で通用しないと気付いたとき。あれからずっと、誰も当てにしないで生きてきたけど、なんか今頃になって疲れて涙が出る。今だって、自分だけが頼りなんだけど。

改善はできるはずだから。

なーんとなくだけど、復活してきた。そして生理4日目。生理前はやっぱりやばいんだね。ピルを飲んでPMSも軽くなってたからうっかりしてたけど、やっぱりPMSは続いてるんだなと実感。専用のカレンダーを壁に貼って、生理前の不安定期を自覚するようにしよう。問題はすぐに解決できなくても、改善はできるはずだから。

今日は少し部屋を片付けた。部屋って自分の心を反映してますな。私は昔から部屋の片づけが『超』苦手だったから、心の中もごちゃごちゃになってたんだよね。タダでさえ苦手なのに親は片付け方を教えてくれたわけでも手伝ってくれたわけでもなく、ただ「やれやれ」って言うばかりだったのね。だから子どもの頃から「死んでもやりたくねー」って思ってたよ。たまに泣きながら殴られながらやらされたのは、ホントに屈辱的だったわ。だから「きれいにしていたら相手の思う壺だ」とか「やったら損だ」みたいなアホな感覚が残っちゃってね、自分のために自分の部屋を片付けることすらずっとできなかった。まれにだけど、部屋を片付けても「やればできるじゃない!」なんて褒められたら、それはそれで屈辱的だったわ。人に褒められるって、ものすごく見下された気がしてたからさ。あはは、被害妄想なのは自覚。だから一人暮らしして誰にも褒められなくなったら、かなーりマシになったんだよね。

部屋の片付けた上手くなるコツって、やっぱり捨てることに限るのかな。部屋の中の物が多すぎるだけじゃない、私は趣味も多すぎるんだ。基本的に持続型じゃなくて短期集中型だし、新しいことに挑戦するのはすごく楽しいことだから自然に数が増えてる。スポーツもいろいろやるからそれぞれの用具やら靴やらトレーニングウェアやら・・・。今使わないものは捨てろって言われてもさ、一緒に楽しむ友達がまたできたら是非やりたいしね。それに自分に合った用具に出会うまで割とつぎ込むタイプだから、どれにも金がかかり思い入れもあったりする。

ふーん?私ってあれもこれもやる「かも」という不確定な未来に振り回されてて、何か「やろう」という現在の自分の意思が作る流れの中に生きてないってことかね?おやまあ、書くと言うことは誠に生産的な作業だね。いいこと気付いた。

そうだ。私はいつのまにか受身になってて、チャンスが来たらこれをやろうとか考えるばかりで、今はこれをやろう、だからこっちを諦めようという選択はあまりした覚えが無いな。もちろん使う可能性のあるものまで捨てたり、たまにだけど楽しめる趣味を辞める必要はないんだけど。全部はできないってことはわからなきゃだめだよね。うん、寝る前に今すぐ使わない用具や装具をまとめてみよう。それで明日は選択して、しまう物はしまい、そうでないものは捨てよう。やあ、今日は1つ前向きなことができたな。

日本を出た時はダンボール10箱ぐらいの荷物だったのに、今や40フィートコンテナにも入りきるかどうか解らない量の私物がある。あたしってバカだろうな。成長したいな。

問題は解決できる。らしい。

あたし逃げてた。自分でもそれはわかっていたし、逃げられるうちだけでも逃げて生き延びようって思ってたんだから、それはそれでひとつの方法だったんだけど。でも近頃やっぱりなんとかしなきゃって気になってきて、「問題は解決できる」って、たったそれだけの言葉で今日は少し前向き。先のことなんて考えないで、1つ1つ問題をクリアしていくか。それで駄目なら死ねばいいんだしね。

物事にはタイムリミットがあって、私を虐待した親をどうしたらいいのかとか考える。最後に一度あって、ちゃんと自分の立場を伝えた方がいいのか、いまさら何がどう変わるわけじゃないからこのまま一生合わない方がいいのか。親も年だし、その決断は早くしないと親も死ぬしね。できればこの手で苦しみを与えたいぐらいなんだけど。

私の実家はキリスト教だったんだけど、最近仏教の言葉がしみてくる。「三毒」とか。

私ね、歌手の誰が好きとか女優のだれだれが好きとか言うと、必ず兄弟にバカにされていたの。「その人整形してるんだよ」「あの人歌下手だよ」とか、根拠があるのか無いのかわからないようなことばかりだったけど、いつのまにか「好きだと行ってもバカにされない歌手」や「好きだと行ってもバカにされない女優」を探す癖がついてた。学校も仕事も趣味でさえも、なんだか自分が好きなことをやるよりも、バカにされないかどうかいつも戸惑ってた。

兄弟だけじゃなくて、日本って本当に情報があふれているでしょ?何をやっても否定するような考え方には出会うわけじゃない?それにいちいち反応してた。それでどうやって生きたら賢いのか、どうしたら自分らしく生きられるのか、完全に自分を見失った。今もその続き。まあ、兄弟には悪気があったわけじゃないだろうから恨みは無いんだけど、この事実を認めて、で、ここからどうしていったらいいのかわからない。わかったとしても、それを実行できるかはまた別なんだけど。

外こもり

海外で一人で生活する能力はあるけれども、やっていることは逃避生活っていうのを「外こもり」って言うんでしょ?それ、まさに私だわ。親の世話にもならず、経済的に自立はしているけれど、今の状況に問題がないわけではない。このままではやがてお金も無くなって、動けなくなるだろう。そうなっても誰も助けてくれないのがわかっているから、なんとか今のうちに自分を助けようと思っている。だけど、やっぱり今日も明日につなげる一歩を踏み出せないまま過ぎていく。

働くのがしんどいっていつからだろう。別に仕事キライじゃなかったのに。でもがんばって成果をあげるともっと期待されて、もっともっと苦しくなるってことの繰り返しが怖くなったの。もうほんの少しだけがんばれば、また違う世界が見えたのかもしれないのに、ひょっとして一番きついところで逃げたのかな、あたしは。逃げられるうちは逃げまくろうって思って、海外に逃げてきたの。日本みたいにおしゃれ・化粧をしなくてもバカにされないし、低コストで生活できるからね。それで確かに気楽になったし、なんか日本にいたときに自分が持ってたプライドに振り回されずに仕事選べるし、だってほら、英語環境で働いているだけでちょっとだけがんばってる気がするじゃない?そんな感じで働いたり働かなかったりでなんとかやってきた。でも今度の波はちょっと大きくて、このまま飲まれてしまいそう。

だからカウンセリングを受けることにしたんだけど、一度受けたカウンセリングの後遺症で3日死んでたよ。自分がしゃべりまくっただけなのにね。でも結局さ、自分の一番嫌な部分、つらい記憶を掘り返しながら赤の他人にさらけ出すって、一体何の拷問?金払ってそんなことして、あたしバカ?自分で自分を助けられないと危険を感じているから行ったのに、この私に助けられない人を誰か助けられるんだろうかって気になるわ。

たとえば私の現在の悩み、「特にありません」って感じだ。働かないとお金が無くなるとか、子供を産むなら早くとか、そういうのも漠然と知ってはいるけど、だから何って同時に思ってて、悩んでいると言うほどのことは無い。なんかやらなきゃいけないんだろうなーと思うからカウンセリングに行ってる。運動しないと負の連鎖がはじまるだろうから、とりあえず運動だけは毎日している。運動すると気持ちよくて、今のままでいいじゃーんってな気分に毎回なるけど、朝起きたら軟体動物に逆戻り。運動しなくなったら、完全に終わりだろうね。それとも終わりに向かって進んでみることで、逆に何か開けるかな。

・・・そんなわけないね。今日は今日の小さな努力を。・・・・・・それができん。