やっぱり無理

カウンセリングの事務所に連絡したら、全く忘れられていたようなんだけど、相手は絶対にそれを認めないのね。しかも別のカウンセラーは私の都合の悪い時間しか空いていないから、別の人では駄目なのかと聞いたら、「何でカウンセラーを換えるんだ」って怒られてさ・・・。いや、夏休みの間もカウンセリングを受けた方がいいって言ったのは私じゃなくてカウンセラーなんだけど・・・って、言っても聞いてもらえなかった。もう泣きたい気分だったよ。かなりがんばったんだけど、怖いから電話切っちゃった。

とにかくあまりに話を聞かなくて一方的にこっちが悪いように言われるからさ、だまっているのも自分に良くないと思ってメール書いて所長に送ってみた。でも日本と違って小さい社会だからさ、基本的には所長も一緒になって客の悪口言って終わりなんだよね。そう言うこと考えてもちょっと落ち込むけど、別にカウンセリングがなくても生きていけるしね。

そういうわけでカウンセリングが具体的にどう私の役に立つのか書くブログが早くも終わりそう・・・だったんだけど、メールを送った後でもう一度あちらから電話が来て、私の都合のいい時間を予約してくれた。ありがたいけど、なんか不愉快なんだよなー。だって絶対クレーマーのような扱いをしているだろうからさー。うーん、そういうことは私の想像でしかなくて、『そうでないかもしれない』と考えなきゃいけないんだったね。

『健全な思考』と言う本で読んだけど、相手の考えていることが手に取るようにわかるのは問題なんだと。それは自分の想像を現実だと思い込んでいるだけだから。それを「テレパシスト」と呼び、どうせろくな結果にならないんだよなとやる前から思うことは「運命論者」。そういう迷惑な人格が誰の中にもあって、そういう人格を育ててしまうことが全体として不幸せな存在になってしまう理由だという。あれはなかなかいい本だったな。自分の中の心のつぶやきを把握するのに便利。もう一度読もう。日本語訳は出ているのかしら?

ストレス

カウンセラーが2ヶ月ほど休みを取るから、別のカウンセラーに変わることになった。次の回がいつになるか連絡すると言ったきり、連絡がないまま1週間が過ぎたのでこちらから連絡してみたら、全く手配がついていないことがわかった。「たいしたことではない」と自分に言い聞かせてはいるが、どうしても「いつもこうだ」と言う否定的な言葉とか、「だからこの国は」などと言う対象を広げるような発想が自然に心を占める。

言い換えて:
『今回は』たまたま忘れられただけかもしれない。『次は』もっと早くこちらから連絡を取ろう。

へへ、今読んでる本がこんな感じの言いかえを推奨しているのでやってみました。こんな七面倒くさいことをやっていられるかと思う心さえ、『次は』面倒くささが少し経るかもしれない。

ねえ、私は小さい頃から被害者になるのだけはイヤだと思いながら生きてきたんだよ。「私は被害者じゃない、私は大丈夫、私は勝つ」って、必死で叫んでた。その意識を25歳を過ぎてから手放したの。虐待されていたことを認めて、虐待していた相手には最初から勝ち目なんかなかったことに気付かされて、そうしたらもう自分を支えるものが何もなくて、坂道を転がるようにウツに落ちてった。

今読んでいる本で、被害者の意識に陥ってはいけない、あなたは被害者ではなくて生き残った勝者なのだからって言うのよね。そうなんだけど、私には被害を認めまいと戦った25年と、被害を認めてウツと戦った10年があって、その10年が間違っていたと言われているようで痛かった。

でもまあ、今こうして書いているうちに思ったことだけど、その25年の間には次から次へと心身症に悩まされていたわけで、10年の間になんとかそれらを克服できたことを思えばやっぱり進歩なのかな。過去に遡って何が悪かったのか考えても解らない場合もあるから、今ここから始めることが重要だと著者も言っていることだし、忘れることはできないけど考えても仕方の無いことだと諦めて、今日から未来について考えることにしよう。

「やる気がしない」理由

2回目のカウンセリングの感触がイマイチだったから、買って読まずにいたセルフヘルプ系の本を一冊読み始めた。この本がとてもよくて、ここ2・3日絶好調なんです、私。その本によれば、やるべきことがわかっているのに「やれない」心理と言うのは、全て『出来ないかもしれない』或いは『自分では対処しきれないかもしれない』という恐れから来ているらしいです。「すべて」ってところがポイントですよ。

「部屋が汚すぎて掃除する気になれない」のも「掃除を始めても自分できれいにできないかもしれない」という恐れがまずあって、それが「面倒くさい」とか「どうせまた散らかるし」とか言う言い訳を生み出して自分を縛るんだそうだ。

私が領収書を片付けなければならないけど面倒くさいのは、「領収書がたくさんあって自分では扱いきれないかもしれない」という恐れが「やりたくない」をこっそり後押ししているんだね。だからと言ってすぐに領収書の片づけを始められたわけじゃないんだけど、この本が「やるべきことに限ってやる気がしない」という状況を説明し、あわよくば解決法まで提供してしてくれるかもしれないという期待を私に抱かせたの。私は良くなるかもしれないと思えるのは、何ともええ気分です。

まだちょっとしか読んでいないけどポジティブな気持ちになれたから、ちゃんと読み進まなきゃね。カウンセリングに期待できなさそうだから読み始めた本が、期せずして私を前向きにしてくれて、そのおかげで3回目のカウンセリングが上手く行ったのかもしれない。これは全く皮肉だわ。けちなこと言うけど、カウンセラーに私の進歩をカウンセリングだけの成果だと思ってもらいたくないわ。カウンセリングが全く役に立たないのではなく、カウンセラーに過度の自信を与えたくないだけ。それで私の恩恵が減るわけじゃないのにね。

ふーーん・・・・

今日はカウンセリング3回目ー。前回まではカウンセラーの能力を微妙だと思ってたけど、今回はちょっと見直した。あ、失礼な言い方なのは百も承知だけど、これが本音だからね。私は人に頼るつもりなんて全然なかったから、セルフヘルプ本を読み漁ったりネットで情報を集めたりして、自分の心を分析をし尽くして来たのね。少なくともそう思っているの。だから私が自分にできる以上のことを、どこの馬の骨ともわからないカウンセリングができるのだろうかと疑問があったの。それが今日、心理的な状況をちゃんと理解してもらえるってすごいなと思った。だからとてもいいです。

単に「そうね、そうね」って理解を示したフリをしているのではなく、私が言葉で上手く言えない時に「意味わかりますか?」って聞くと、ちゃんと別の言葉でその心理を言い表してくれたりして、なかなか便利なものなの。そう、カウンセラー本人に同じような経験があるかないかではなく、虐待の心理を言葉で学んできているからこそ、私にあいまいな理解しかない部分を適切な言葉で表現することができ、その瞬間を私は『便利』だと感じたの。ちゃんと役に立つのよ。これは私なりの尊敬よ。私のことを「わかってくれる」とかではなく、「話が通じる」ってことかな?

今日は母親との関係とか一番つらかったこととかを聞かれた。私が3歳とか4歳の頃の話をいろいろするので驚いていたのが笑った。だから「人より昔の記憶がある」って何度も言ったのに・・・。とにかくねー、母親がしつけだと思い込んでやったことで私が何を心に刻んだとか、どうして私が嘘をつくようになったのかとか、そんなことを話した。

解離状態に入ることを言ったら「それはすごい虐待でしか起きない心理状態だ」って言ってたね。私の体には傷が無いからさ、証拠がないのに文句を言っても仕方ないような無力感をずっと抱えてきて、もちろんそれは絶対に消えないんだけど、少なくとも人に虐待があったことを私の言葉以外から信じてもらえることはすごい意味があるんだよ。あたしはできれば世界中の人に母が何をしてきたか知らせたい。それでもあの人は「ごめんなさい、悪気はなかった。知ってさえいれば絶対にしなかった」って、涙を流しながらいい人ぶって言い張るんだろうけど。自分の悪意を認めないなら、謝っているうちに入らないのにね。

このままカウンセリングを続けたいところなんだけど、今の担当カウンセラーが2ヶ月も夏休みを取るらしい。来週から他の人に変えるか2ヶ月休むかって聞かれて、他のカウンセラーを試す(言葉悪いね)といい機会だから、他の人を頼んだ。もちろん、「2ヶ月休んでいいのか、それとも他の人と続けた方がいいのかご意見を頂きたい」ぐらいのことを言って、カウンセラーに「他の人と続けなさい」って言わせたんだけど。

カウンセリングの後ってすごく疲れて寝てしまう。

傷つけずにはいられない

先生がいいと生徒はよく学ぶ。私の先生は母親と兄弟。こっちはなにせ幼児だったから無力で、自分の怒りや屈辱を言葉に出来ず、傷つけられた時は自分の痛みを見つめながら復讐を考え、いつのまにか自分の心理分析することを覚えた。心はどうやったら痛いのか、傷口見つめて自分も誰かに同じことが出来るように考え抜いた。

例えば私が「どうしてこれはこうなるの?」と兄に聞いたとする。それに正面から答えず、「そうなるに決まってるじゃん!」と言って兄が立ち去ってしまうと、言われた方は「自明のことなのか?わからない自分がバカなの?」と考え込んでしまうでしょ?そんな単純なことで人を不愉快にできるんだよ。私はパターンを習得したら、必ず誰かに使うようにしていたんだよね。当然ターゲットはクラスの友達。もちろんそんなことばかりをしていたら嫌われるばかりだけど、あたし頭良かったからそれ以上に人を操ることができた。同い年の子供なんてチョロかった。

さすがに中学になって一度全員から無視されたけど、そこからいじめに発展させないコツだってもちろんわかってたから、つらかったけどがんばって切り抜けた。(がんばったうちに入るかね?)そりゃいじめのプロが、同じ年のガキどもにいじめられてる形でいるわけにはいかないからね。そんな妙なプライドを掲げて胸をはって学校いったよ。

何かされたらきっちり言葉で傷つけ、先生にも親にも絶対に言わず、話しかけてくる子には普通に返し、チャンスがあれば人を笑わせる。そんな当たり前のことで、私と一緒にいると楽しいと思う人が一人でも出てくれば、いじめる理由が少しずつなくせる。いじめに勝つためには、相手に満足感を与えないことが一番だからね。私が平然としていたら相手は不愉快、私としゃべる人が出てくれば不愉快、私が人を笑わせれば不愉快、私を傷つけようとして自分が傷ついたら不愉快、これを続けられれば、いじめる側の立場が無くなっていくの。

鍛えに鍛えられた私は人を言葉で傷つけるのが大得意だったからさ、やりすぎて友達に嫌われることはあっても長期的にいじめられることはなかった。どうしようもない能力だけど、武器として鍛えられたものは武器としてなら役に立つってことだ。

でもこの武器はさ、持っているだけで自分も傷つけるんだよ。心を蝕むんだよ。でも武器を捨てたら自分を守るものがない。他人に「守ってください」とか言える?他人に「私は弱いんで勘弁してください」とか言える?自分から弱いとこさらして、そこを突くなって期待する心が厚かましくすらあるよね?あたしなら弱点を晒されたら、すかさず突くよ。だから自分から弱点晒すぐらいなら、誰でも彼でも武器でばさばさなぎ払った方がいいに決まってるじゃない。

人を傷つける能力ってね、つまり人が言われたくないことを言うだけだからね、相手を分析する能力なんだよ。相手の心理状態とか。私はそれが得意なんだから、いいカウンセラーになれるかもね。

晴れて2回目

2度目のカウンセリングに行ってきた。今回は時間をやや間違えて、待合室で1時間半ぐらい待つことになったんだけど、机もいすもコーヒーもあったので新聞読んだり本を読んだりで問題なし。・・・のはずだったのに、一人で新聞を読みながらノートに書き書きしてたら「あら、忙しくしてて偉いわねぇーー」みたいなことを言われ、カチンと来ちゃった。だってカウンセリングに来てるのは目的を持った継続的な努力ができず、アンダーアチーバーであることを改善したいからであって、「一日中鬱々として何もできません、私はどうしたらいいんでしょう」なんて聞きに来ているわけじゃないのよ。私はできる努力は全部した上で、越えられない壁があるから相談に来ているの。まるで役立たずのひきこもりみたいに扱かわれてものすごく不愉快だったわ。

やっぱりカウンセラーって家でごろごろできる甘えた環境にある人だけを「問題が大きい」って見なすのかな?次回似たようなことがあったら「人を怠け者みたいに扱わないでください」って言おうかな。「家でごろごろしている人だけがうつ病じゃないです」って言う必要もあるかもしれない。って言うか単に、あたしの問題を勝手に決めてかかるのはやめてくれ。

まあでも金払っているわけだから話はしたよ。母親の事とか父親のこととか。母親のバックグラウンドについて話せって言うからさ、恵まれた環境に生まれ高学歴で基本的には努力家であるとそのまま述べたらさ、「あなたは母親のことを誇りに思っているように見える」とか言い出したんだよね。母親は非の打ち所の無い母親になろうとかなりの努力をしていたことは事実だからさ、それを否定する気はないだけなのに、いきなり間違った分析されちゃったわけだから困ったわよ。だから「私は事実を言っているだけで、母親本人を誇りに思っているわけじゃない」って言ったんだけど、うん、きっと伝わってないね。なんか通じているなって思える瞬間もあるんだけど、早合点して結論を急がないで欲しい・・・。

あとはすごい小さい頃の記憶があることとかも言ったら、「写真からもいろいろわかるしね」みたいなことを言われた。写真で見たことを記憶があると錯覚することはよくあって、それを示唆しているんだなとわかったから、写真では絶対にわからないことですって言ったんだけど、言葉どおり受け止めたとは思わないね。小さい頃の記憶があるのは写真を見て自分の記憶だと錯覚しているんじゃないの。そう言う可能性がない記憶をちゃんと探しているの。私はバカじゃないから。

正直に言って、人と話すことにはそれでも意味があるなと思う。間違って受け取られることですら、そこに沸き起こる怒りを自己分析するとまた新しいことがわかる。例えば褒められるのがキライなのは私が称えられたいからだとか。褒めるというのは上から目線でしょ?称えるのは見上げることでしょ?私は見下されるのは絶対にイヤなの。私をバカだと思う人間と話すのは疲れるの。私をバカ扱いする人間は、思い切り叩き潰してやりたくなるの。あ、もちろん暴力的にじゃなくて心理的にね。私にはそれが可能だから、我慢するのつらいのよ。

今日はカウンセリングが終わった瞬間、カウンセラーがため息ついてたのね。カウンセラーが早合点することにイラついて、何度か「そうじゃなくって…!」とか「そうは言ってません」というようなやりとりがあったからだと思うけど、こちらもちょこっとうんざりしたよ。お金払ってても、カウンセラーにも甘えちゃいけないの?期待しちゃいけないの?

あたしをバカ扱いしないで、ちゃんと話を聞いて。

って、あたしと同程度の知性があるかどうかも解らない人に、期待する方が無理なのかな、所詮。でもこうやってあたしはいつも助けを求められないで来たし、相手はトレーニングを受けてきた人間のはずなんだから、もう一度話してみるか。こんな期待度の低いカウンセリングだけに、自分でも行く末が楽しみ、半分不安。

カウンセリング料

私が行き始めたカウンセリングは非営利団体で、料金はこちらの収入によりけり。「料金」とも言わず、「寄付」という言葉を使う。英語なのでDonationね。で、どのぐらいの収入の人はどれだけ寄付してくださいという目安になる表がちゃんと受付に用意されていて、私はもう半年ぐらい無収入なので当然最低額の$30。・・・だと思ったんだけど、カウンセラーに「いくら払えるの?」って聞かれて「無収入なので$30です。」と堂々と答えた私に、カウンセラーはちょっと微妙な表情で「仕事をはじめたらもっと寄付してね」って言ったの。その言い方が胸に少しひっかかりつつ、とりあえず生返事をして帰ってきたんだけど、1週間以上たってじわじわとわかってきたことがある。彼女も私の問題は軽いと思っているんだなということ。

前回は初めてだったから私も何を言っていいのかわからず、とりあえず今までの人生について、親に虐待されたことなんかを言ったんだけど、カウンセラーは私の英語や仕事の内容を必要以上に褒めちぎっていたのね。私をリラックスさせるためだと言うことはわかっているけど、実際に私の給料はたぶん彼女より高いことを悟ってもいたと思う。だから私が最低額だけしか払おうとしないことに、「もっと払えよ」って思ったんじゃないかって、確証は無いけれど思う。そして化粧してパリッとして、にこやかにはきはき話してきたからうつ病でもないと思われただろうし。

あたし結構他人を信じないタイプだから、カウンセリングに行くなんて本当に最後の手段なんだけどな。でも昔から強がりが染み付いているから、悲壮な顔なんかできないのよ。うつ病の薬を処方してもうらう時に、生まれて初めて「虐待」という言葉を医者に言ったら、涙が止まらなくて恥ずかしかった。そんなの二度とごめんなの。あたし人前で泣くのはものすごく屈辱だと感じるの。だからもうイヤなの。

泣いたりしないと問題が深刻だって信じてもらえないの?カウンセラーにすら相手にされてないような感じがちょっとだけする。

関係ないけど、あたし人前で泣く人間をうらやましいと思うの。男の気を引く涙とかじゃなくてね、悔しい時に涙を流してなぐさめてもらっている人とか見ると、「この人、人前で泣けるほど他人を信用しているんだな、幸せな人生なんだな」って。泣いている人に向かって「幸せな人生」はないだろって声もあるだろうけど、私には幸せ自慢にしか見えない。かと言って私も人前で泣いたことがないわけじゃないんだけど、そう言うときはものすごく屈辱的で顔もあげられない。その屈辱感でまた泣けてくるから止まらないし、その後も自己嫌悪でどん底。あたしは当分、カウンセリングでも泣きたくないから、泣かないで話せる範囲しか話せないよ。これでは意味がないのかな。